うんこ味のカレーに背を向けるようなうんこ野郎について

なあなあ、うんこ味のカレーと、カレー味のうんこ、食べるならどっち?


 

日本人なら誰しも一度は選択を迫られたであろう難問だ。

「うんこ味のカレー」と答えれば、

えー! 味はうんこなんだぜ! それ、うんこ食えるってことじゃん! うえー!


などと、成立するようでしていない論理とともに罵られ、
「カレー味のうんこ」と答えれば、

えー! 味はカレーでもうんこなんだぜ! うんこ食えるのかよ! もう今日の給食うんこでいいじゃん!


などと、屈辱的な献立提案とともに、やはり罵られる。

「僕、学校でうんこなんかしないよ」的な雰囲気を醸し出しつつ、誰にも見つからないようにこそこそとトイレに向かう隠れキリシタン状態の少年たちにとって、この悪魔の問いはどれだけ恐ろしかっただろうか。

 

かつて悪魔の問いに怯えていた私も、やがて大人になった。

 

そして、この問いを打ち破る術を編み出した。

問いの意義を疑う

なあなあ、うんこ味のカレーと、カレー味のうんこ、食べるならどっちにする?


我々がこれから生きていく中で、うんこ要素から逃れられない食の二者択一に直面することはあるだろうか。いや、ない。よって、その問いに答える必要はない。


わけわかんねえよ・・・。くそ・・・。


くそはお前の問いの主題だ。お前は質問から感嘆詞まで、くそまみれだな。このうんこ野郎。


は? ちげーし! うんこ野郎って言うヤツがうんこ野郎だし!!


これ以上うんこにうんこを重ねるのはやめておけ。質問と感嘆詞だけでなく、反論の根拠すら、くそまみれじゃないか。うんこ野郎。


くそう・・・。(あ、またくそって言っちまった・・・)


こうして私は悪魔の問いを打ち破ることに成功した。

あとはこれを全国の小学生に広めれば、数百万人の子どもたちを救うことができる。

私はそう考えていた。

うんこ野郎はどちらか

しかし、カレー味のうんこの問いの本質的な意味について考えると、話が変わってくる。

私が振りかざした論理

我々がこれから生きていく中で、うんこ要素から逃れられない食の二者択一に直面することはあるだろうか。いや、ない。


これは確かにその通りだ。

だが、だからと言って

よって、その問いに答える必要はない。


ということになるだろうか。

ならない。
何故なら、その問いの本質的な意味は「いずれ直面する二者択一の答えを知りたい」などという表面的なものではないからだ。

 

では、この問いの本質的な意味は何か。

それは、友人とのコミュニケーションだ。

そして、それはやがて、同窓会で再会した旧友と「小学生の頃、カレー味のうんこの話、すごい嫌だったよね」と笑い合える思い出となる。

小学生にとってのうんこは、サラリーマンにとってのゴルフと同じように、重要なコミュニケーションツールなのだ。

 

 

私は表面的な問題だけを見て、彼らから大切な思い出を奪おうとしていたクソみたいな野郎だった。

 

うんこ野郎は、私の方だったのだ。

 

ことごとくうんこ野郎

私は趣味でアプリ開発をしている。

それまで何一つ続けることのできなかった私が初めて続けることができたのが、アプリ開発だった。

続けることができた背景には、ある出来事があった。

大学時代に友人と作ったアプリが Web メディアに取り上げられて、自分の知らない人たちが Twitter でつぶやいてたのを見た時だった。
それまでずっと地方で生きてきた自分が作ったものが、行った事もない場所に住んでいる誰かに届いたことを実感した。
それが、私には世界がぐんと広がったように感じられた。

今考えると小さなことだったが、暇な大学生にアプリ開発を続けさせるには十分すぎる感動だった。

 

それからアプリ開発を続けて、ある日、自分が苦しんでいることに気付いた。

ダウンロード数が伸びない。

自分が良いと思ったものが、広がっていかない。

 

しばらく経って気付いた。

追いかけるものを間違えている。

数字という分かりやすくて表面的な問題ばかりに囚われて、本当に大切なことを蔑ろにしていたのだ。

何かを作ることの純粋な面白さとか、それが誰かに届いて喜んでくれた時の嬉しさとか、良いものを作ろうとする過程で出会う何かの美しさとか、そういう綺麗事みたいな大切なものを、蔑ろにしていたのだ。

そして、つまらない見栄を張るために、「すごい」と言われるために、数字ばかりを追いかけて、何一つ面白くなくなっていた。

 

ことごとく本質を見失った、うんこ野郎だった。

私たちが内包するうんこ野郎

私は決してカレー味のうんこの問いに背を向けるような真似はしたくないし、アプリ開発をダウンロード数の最大化作業にしてしまうような人間にはなりたくない。

賛否両論はあるだろうが、私はそういった、本質を見失って大切なものを犠牲にしてしまうような人間を、敢えてうんこ野郎と呼ぼうと思う。

うんこ野郎を定義した時に、考えたいことがある。

 

私たちは皆、自身の中にうんこ野郎を内包しているのではないか。

そして、うんこまみれの人間同士が互いを臭いと感じないのと同様に、私たちは自分たちがうんこ野郎であることに気付いていないのではないか。

そうであるとすれば、世界全体はうんこまみれであり、うんこにまみれていない生き物にとって、信じ難いほどの悪臭を垂れ流しているはずだ。

 

かけがえのない思い出になるであろうコミュニケーションを自らの手で絶ち、大切なものを数字を追いかける道具に変え、それに慣れてしまう。

もしかしたら、それが正しいことだと思わせてしまうような圧力が、私たちにはかかり続けているのかもしれない。

「世界とはこういうものなのだ」と受け入れたくなるかもしれない。

「綺麗事ばかり言っても何も変わらない」と言われれば、その通りなのかもしれない。

 

でも、そんなのはやっぱり、うんこ野郎だ。